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第24話(最終話)

​「下町メイド物語」

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 いつも通りの朝だった。ナナ・ミシェーレは誰よりも早く剣技場に向かい、座禅を組む。夏学期も終わりを迎えたこの季節、日の出は早い。まだナナ以外誰もいない剣技場には、窓から曙光が差し込んでいた。

 朝一番の座禅は、いまも欠かせない習慣になっていた。虚心坦懐、それこそが戦いにおいて最も大切なものだからだ。いかなる状況においても、戦いは平静の心を失った者から敗れてゆく。勝ちを焦ってはならない、負けを怖れてはならない、雑念を抱いてはならない、ゆえに座禅で虚心坦懐の心を養うべし——それが剣術の師、モミジの教えだった。

 座禅の姿勢でしばし無心になったのち、目を開き、傍らに置いた剣を携える。立ち上がりざまの鞘払いとともに、白刃の輝線が虚空を流れた。まさに神速の居合抜きであった。

 うん、いつも通り、良い調子——そう思った刹那、「おはようございます!」という元気な声が背後から掛かる。後輩たちが朝の鍛錬にやってきたのだ。

 

「おはよう! 今日もみんな元気だね!」

 

 ナナは笑顔で後輩たちへ向き直る。三年生になった彼女は、ここで剣術の指導を受け持っている。モミジの〈里〉で鍛錬を積んだ〈ロンドン事変〉の英雄——そんなナナに教えを請う後輩たちが後を絶たなかったためである。

 皆で剣技場を清掃し、座禅を組んだのち、型と立ち合いの稽古を一刻から二刻ほど行う光景は、いつもの朝練と変わらない。だが、いつもと違う点がひとつだけあった。

 

「ナナさん……今日が最後なんて、寂しいです」

 

 朝練を終えた頃、後輩のひとりがぽつりとこぼした。

 

「でもすごいです! 卒業後すぐに〈王宮〉入りするだなんて!」

「ナナさん! 王都に行ってもお元気でいてくださいね!」

「私たちみんな応援していますから!」

「だからこれ、ささやかなものですが、私たちからのプレゼントです!」

 

 手渡されたのは、聖母マリアの御姿(みすかた)が彫られたメダイユだった。メダイユとは別名メダイとも呼ばれるキリスト教の聖品だ。ロザリオと同様、信徒たちは各々自分のメダイを手に祈りを捧げる。

 繊細かつ精緻なその造りに、ナナはしばし目を奪われた。遅れて、後輩たちの優しさが胸の内にじんわりと染みた。

 

「ありがとう……みんな!」

「それ、新品ですから、あとで教会のシスターに祝別をいただいてくださいね!」

「うん! そうするよ!」

 

 今日はナナたち学園三回生の卒業式だ。ナナが指導役を務めるこの朝練の風景も、今朝が最後というわけだった。

 

 ~~~

 

 ルル・ラ・シャルロットは、一年ぶりにファルテシア王国の地に舞い戻った。船、馬車、汽車、そしてまた馬車を乗り継ぎ王立ファルテシア学園へ向かう旅路は、かつて彼女が故郷を離れ留学に赴いたときの行程と変わらない。

 正門前で馬車を降りる。懐かしい学舎がそこにあった。忙しさにかまけ、気づけば母校から二年も足が遠のいていた。かつては入学式と卒業式のスピーチで年二回、ここを訪れていたというのに、いまやそれすらも断らねばならない状況が続いている。

 今回こうしてルルが学園までやって来られたのは、自らの強い希望というのも勿論あったが、本土への任務成果の報告日程と卒業式の日程がたまたま重なり合ったのが理由にすぎない。実に幸運なことであった。

 もっとも、海峡の向こう側でいまも危険な任務に従事している仲間たちのことは、とても気がかりではあったのだが。

 エントランスで来訪を告げると、ほどなくして学園長(マスター)の秘書を名乗る者が姿を見せた。その人物の姿を見、ルルはわずかに驚いたような顔を浮かべてしまう。

 

「ペネロペ? あなた……」

「えへへ、驚いた?」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、ペネロペはルルの顔を覗き込むような仕草を見せる。

 それにしても、見紛うほどの別人とはこのことかとルルは思った。短かった銀色の癖っ毛も、いまや背中に至るまで伸びている。ぼさぼさだった髪は櫛(くし)で丁寧に整えられ、どちらかといえばボーイッシュだった見た目は、上品で美しく、華やかな淑女然としたものに変じていた。

 さらに、だらしのなかったあの服装はどこへやら。いまの彼女は良い仕立てのメイド服をきちんと着こなし、ロングスカートの裾をつまんで折り目正しいお辞儀までしてみせたのだ。

 

「いまは学園長(マスター)の下で秘書をやっているんだ。ある意味、ここはロンドン以上に王国の情報戦の中枢をなす場所だからね。適材適所ってわけさ」

 

 フフンと鼻を鳴らしたペネロペは、ルルを連れ立って絨毯敷きの回廊を歩いてゆく。ここは学園敷地内に位置する職員棟だ。

 

「ここは同盟諸国から留学生を受け容れて、エリートを養成する教育機関だ。であればこそ、ここで築き上げた人脈はファルテシア王国と同盟国の未来の礎となる——何せ、フランス王国との関係は、君の存在抜きに語れないほどだからね」

 

 先を歩くペネロペは、そう言ってルルにウインクする。

 内部には教諭個人に宛がわれた研究室がいくつもあり、たまにレポート提出や補習を受けに来たとおぼしき学生たちとすれ違うたび、「おはようございます」の元気な声が飛んでくる。これもまた、懐かしい風景であった。

 

「入れ」

 

 重厚なつくりをした学園長室の扉をノックすると、中から入室を許可する声が響いてきた。

 

「ご無沙汰しています、レディントン先生。いいえ——これからは、マスター・レディントンとお呼びすべきでしょうか」

「いままで通りで構わない。お前に畏(かしこ)まられると、居住まいが悪い」

 

 ルルの言葉に、ばつの悪そうな苦笑が返ってくる。恩師であるアヴリル・メイベル・レディントンの声だ。今年度より彼女は学園長(マスター)の座に就いていたのだ。

 

「ルルちゃん、ブリュッセルはどうだった?」

 

 と、唐突に別の声が聞こえた。ルルのすぐ背後からだ。

 

「……モミジ、ここで気配を消すのはやめてくれ。心臓に悪い」

「うふふ、それは失礼」

 

 声の主である王立メイド協会名誉会長のモミジはそう言って、ソファへ鷹揚そのものといった仕草で腰掛けた。同時に、ティーカップを持ったペネロペが別室からやってくる。茶葉の立てる良い薫りが、部屋中に漂っていた。

 

「来て貰って早々だが、任務の成果を聞かせてくれ」

「概ね、書簡に記した通りです。ブリュッセルは大ドイツの浸透が深刻です。パリも、アムステルダムも、似たようなものでした」

 

 アヴリルの問いに、ルルは淡々と返答する。

 

「各国の防諜活動も追いついていない、か。頭の痛い話だな」

「大ドイツは東西軍事境界線の軍備を増強しつつあります。海軍の軍備も同様です。背後にいるロシア帝国やオスマン帝国の動きにも気を配らねばなりません。特に、ロシアの南下政策については注意が必要かと……」

 

 約一年間、ルルは〈フォルセティ〉の仲間とともに欧州本土へ渡り、大ドイツ地下工作網の殲滅作戦へ従事していた。だが、結果はさほど芳しくはない。敵側にも〈フォルセティ〉同様、精鋭たるメイドの集団がいたからだ。

 

「戦争に向けてのカウントダウンは刻一刻と早まっている……ということね」

 

 ティーカップを手に、モミジは静かに呟いた。

 

「我々は、もはや〈ロンドン事変〉以後の世界に生きている。たかが二年、されど二年だ。世界が変わるには、充分すぎる時間といえるな」

 

 アヴリルは厳かに言い、湯気を立てるティーカップの中身に口をつけた。

 二年前の〈ロンドン事変〉。〈ナンバーズ〉と呼ばれる王国機密部隊の武装蜂起と、それに伴う王都主要インフラの破壊工作。あの事件の終結以降、ヨーロッパ情勢は急速に変化しつつあった。

 いちどは平和条約締結へ傾きかけた大ドイツとファルテシア王国の関係が悪化し、講和に向けた交渉が決裂したのだ。その後はいわずもがな、両国を盟主とした東西陣営間での軍事的緊張が高まっている。先頃行われた新女王による「鉄のカーテン」演説は、そうした情勢の変化を決定づけるものに相違なかった。

 

「前国王が呑もうとしていた軍縮規約をはね除けた時点で……いや、〈XD(イクス・デー)〉の返還要求に応じなかった時点で、この流れは必然なものだった。計算違いがあるとすればひとつだけ。私たちは、大ドイツのメイドをいささか甘く見ていたってこと」

 

 モミジの言葉に、ルルも頷く。この二年、水面下では両国間の様々な駆け引きがなされていた。その最前線にいたのが、モミジであり、モミジの下で動く〈フォルセティ〉の四人組だ。

 

「〈ナンバーズ〉が欧州本土でどれほど厳しい戦いを経験していたのか、いまさらながらに実感します」

「私の時代は必ずしも、大ドイツのメイドは我が国とくらべて優秀とはいえなかった。メイドの育成にあって、ファルテシア王国には一日の長があるという自負もあった。それこそが驕(おご)りだった、というわけね。自省すべき点だわ」

「〈黒き淑女たち(シュヴァルツェ・メートヒェン)〉……ベルリンの守護天使たる精強無比なメイドたち、か」

 

 ルルと、そしてモミジの言葉を聞き、アヴリルが呟く。〈黒き淑女たち(シュヴァルツェ・メートヒェン)〉。大ドイツが有する、精鋭メイド部隊の名称だ。トレードマークたる漆黒の外套を身に纏う、死を司る天使たち。その存在に、〈フォルセティ〉の四人でさえ手を焼いている次第だった。

 

「いまだ全貌は掴めてこそいませんが、間違いなくこれだけは言えます。彼女たちは強い。それこそ、我々〈フォルセティ〉に匹敵するほど」

「いまやメイドが大っぴらに軍務へつく時代だが、そういう意味で、大ドイツの思想はファルテシア王国の先を行っていたともいえるだろうな。いまやあの国はメイドを兵站の一部として取り入れ、運用している。〈黒き淑女たち(シュヴァルツェ・メートヒェン)〉は、その最たるものだ」

「今年のメイド学科卒業生も、多くが軍への入隊を志願しているって聞いたけど?」

 

 モミジの問いに、アヴリルは頷く。

 

「時代の変化だ。メイドが大っぴらに戦争へ従事する時代が到来しつつある。この流れは、今後益々加速してゆくことだろう」

「〈ロンドン事変〉からたった二年。されど二年、ね」

 

 二年前の〈ロンドン事変〉を契機とした前国王の退位と若き新女王の即位が、ひとつの転換点であったことは間違いない。

 新女王は前国王の外交路線から一八〇度方針を転換し、軍備の増強と欧州本土の防諜活動強化を打ち出したのだ。すべては大ドイツの脅威に対抗するためである。そうした外交政策および安全保障の主軸にいるのは、ファルテシア王国が育てた優秀なメイドたちに他ならない。

 

「〈ロンドン事変〉をめぐる我々の判断が正しかったのか否か。〈ハート〉の起こしたクーデターを阻止したのは正しかったのか否か。時折考えこそするが、これだけは言える。大ドイツへの服従か、さもなくな戦争か……その二者択一を超えた第三の選択の先に、王国の未来はある」

 

 アヴリルの口調は決然としたものだった。

 

「全面戦争は起こさない。でも、王国の権益と臣民の安全は守らねばならない。とても難しいけれど、私たちの手でやるしかない。そうでしょう? ルル」

「はい。そのために必要なのは、我々〈フォルセティ〉と志をともにする、精強無比なメイドです」

 

 モミジの問いに、ルルもまた決然とした言葉で応じた。

 

「〈フォルセティ〉に次ぐ新たな精鋭部隊の主軸として、ナナ・ミシェーレを据えようと思っている。彼女の志の高さは、お前ならよくわかっているだろう」

 

 アヴリルは、ルルに向けてファイル綴じされた紙束を手渡した。《極秘》の印字がなされたそれには、次世代のメイド精鋭部隊の人員候補が綴られている。そこに連なる名は、次の通りだ——ナナ・ミシェーレ、ニコル・ベイカー、リサ・キャロット、カエデ、リン・ファン、ユスティーナ・ジェルジェンスカヤ。

 

「ナナちゃん、あれからもっと強くなったわよ?」

 

 モミジが悪戯っぽい笑みを浮かべる。自分の弟子の成長ぶりを自慢するような顔だ。それに対し、ルルはにっこりとした笑みを浮かべてこう応じた。

 

「はい、再びナナさんと手合わせ願えるのを、ずっと楽しみにしていたんです」と。

 

 ~~~

 

「卒業おめでとうございます!!!」

 

 後輩たちの声に送られながら大講堂を出ると、雲間から差し込む日差しが眩しげに映った。ナナはそっと太陽が覗く方角へ手をかざす。

 長いようで短い三年間だった。そう思えばこそ、卒業式は実にあっけなく終わったように思う。

 ついこの間、この大講堂で入学式(マトリキュレーション)に出たはずなのに、もう三年が経ってしまった——そう感じてしまうほどであった。式典用の正装(サブファスク)に袖を通すのも三年ぶりで、ルルのスピーチを聞くのも三年ぶりともなれば、時の経過の早さを実感せずにはいられなかった。

 

「皆様、ご卒業おめでとうございます。入学式のとき、あなたがたは〈ファミリー〉の一員ですとお話ししたことを覚えていらっしゃいますでしょうか——」

 

 そんなふうに始まったルルのスピーチを聞きながら、そうか、この卒業式が終われば自分はもう一人前のメイドなのか、あのルル・ラ・シャルロットと一緒に最前線で働くことになるのかと、今さらながらの自覚をナナ自身、得たものだった。

 

「ちょっと、何ボーッとしてんのよ」

 

 背後から突然肩を叩かれ、驚いたナナはびくんと身体を震わせる。卒業証書を携えたリサがそこにいた。ニコルも一緒だ。

 

「そんなんで〈王宮メイド〉が務まるわけ? 少しは自覚持ちなさいよね」

 

 きつい物言いも昨今は多少砕けてきてはいるものの、リサの勝ち気な性格は入学時のときと変わらない。

 変わったことといえば、ノーラ・オブライエン教諭のもとで馬上槍試合(ジョスト)のいろはを学び、ジュリアとともに馬術部のエースとして活躍するようになったことだろうか。それ以降、彼女は良い意味において「自信家」然としてきている。

 一方、リサの隣で微笑を浮かべているニコルは、いまや料理と菓子作りの名手として学園で並び立つ者はいないほどの腕前に成長している。料理が苦手なナナにとっては、最良の師匠だ。剣の師がモミジであれば、ナナの料理の師はニコルである。

 

「まぁ、いいじゃないですか。ナナさんが卒業テストで危うく落ちかけたとしても、こうして卒業できた事実そのものが重要ですから」

「リンちゃん、それフォローになってないよ……」

 

 リサを宥めるようにリンが言い、傍らでカエデが苦笑していた。

 リンとカエデは三回生のうちではナナと並ぶ剣の名手だ。もとより武芸に秀でていたリンと並び、さすがはモミジの血を引く子であるからだろうか、カエデの剣の腕前はナナでさえ舌を巻くほどだ。いずれは母親に並ぶ剣の名手になるだろうと、昨今は専らの評判だった。

 

「もー! みんなひどいよー!」

 

 ナナがぷんすかと怒っていると、卒業生と在校生の人だかりから、エリザベートとジュリアが抜け出してきた。見目の麗しさと生徒会会長・副会長の地位も相俟って、二人は学園中の人気者だ。下級生のあいだではひそかにファンクラブさえ結成されていると聞く。

 エリザベートとジュリアは、卒業後はナナたちとともに〈王宮〉へ仕えることになっている。故郷のナポリへ帰るという選択肢もあったはずだが、ジュリアたっての希望で、姉と同じ〈王宮メイド〉になる進路を選び、エリザベートもそれに倣ったという経緯だった。

 

「ナナさん、ルルさんへのご挨拶は?」

「これから行くよ。またルルさんに会えるのが楽しみなんだ!」

「あの御方も昨今はお忙しいというのに、わざわざ来てくださるなんて。本当に光栄なことです」

「親しき仲にも礼儀あり、です。旧知の仲とはいえ、ルルさんに比べれば、卒業したての我々はまだ新米メイドにすぎません。くれぐれも粗相のないように」

 

 エリザベートが言うと、ジュリアがいつもの調子でつけ加えた。昨今、ジュリアは口数がとても多い。生徒会副会長の座についてからは特にそうだ。

 理由として思い当たる転機があったのだとすれば、生徒会長のエリザベートを補佐する役職に就いたからだろうか。とりわけ各学科間の折衝などの交渉ごとにおいて、ジュリアの手腕は学園中で「辣腕そのもの」という評判だった。

 政治学科の三回生たちはこんなことを言っていた。彼女がメイド学科で良かった。もし政治学科にいたのならば、新米外交官の椅子がひとつ減っていたに違いない、と。

 

「ユスティーナちゃんは?」

「新聞部の活動で、学園長(マスター)とルルさんのインタビューへ行くと言っていました。もうすぐ終わるのではないですかね」

 

 ナナの問いに、リンが応えた。新聞部の誇る辣腕デスクとして活躍するユスティーナは、卒業後従軍メイド兼記者として軍に入ることが決まっている。ナナたちの進路とは別になるが、確かに彼女らしい選択だと、皆が皆思ったものだった。

 

 と、そのときだった。「おーい、ナナちゃーん!」と呼ぶ声が聞こえてきた。ペネロペの声だ。

 

「ペネロペさん、変わりましたよね。特に見た目が」

「同学年だったはずなのに、気づけば学園長秘書になっていたときは流石に驚きましたが……」

 

 リンとエリザベートが口々に言い募った。そんな話をされているとはつゆ知らず、ペネロペは満面の笑みを浮かべている。

 

「卒業おめでとう、みんな! この学園を卒業すれば、君たちは晴れてエリートメイドたちの仲間入りだ。中退の僕からすれば、本当に凄いことだよ!」

「学園中退で〈エスパティエ〉の座に納まってる身分から言われると、嫌味にしか聞こえませんが」

「うっ、それは……ほら、僕ちょっと人と違う波瀾万丈な人生を歩んでるからさ……」

 

 リンの返しは相も変わらず辛辣だった。ペネロペは学園長秘書への抜擢と同時に、〈コミュニア〉から〈エスパティエ〉に昇格していたのだ。

 

「あっ、そうだ! ナナちゃん、ルルさんが呼んでるよ」

「私もいまご挨拶に行こうとしていたところだったんです」

「なら、丁度いいや。正門のところでルルさんが待ってる。〈例の場所〉へ行くんだって」

 

 〈例の場所〉。その言葉を聞き、ナナは「あそこに行くのは、確かに今日が最後の機会になるかもしれない」と思ったのだった。

 

 ~~~

 

 学園のある丘の麓に、下町そのものといった古式ゆかしい街並みがある。密集した家々のあいだを細く走る路地や街の中央にある広場は、かつて仮ライセンス試験でナナたちが〈闇メイド〉たちとの戦いを演じた舞台に他ならない。

 通りは人びとで溢れ、軒先に並ぶ商店からは買い物客たちを呼び込む声という声が聞こえてくる。実に活気溢れる下町であった。

 

「制服、今日で着るのが最後だと思うと、何だかちょっぴり寂しいですね……」

 

 ルルと連れ立って人通りの中を歩きながら、ナナはほんの少し寂しげな声音を覗かせる。

 

「って、ちょっと待ってください……よく考えたら、ルルさんもこの制服を着ていた時代があるってことですよね……?」

 

 思わずナナは想像する。学園の制服を着たルルの姿を。きっといま着てもバッチリ似合うに違いない。憧れの人物の制服姿を想像しながら夢うつつといったナナの様子を眺めながら、ルルは「うふふ」といつも通り柔和な笑みを浮かべていた。

 

「私も、はやくナナちゃんが〈王宮〉のメイド服を着ている姿が見てみたいわ」

「えへへ、ルルさんに見ていただく日のことを考えながら、自分でデザインを考えて作ったんですよ? 今度お見せしますね!」

 

 そうこう言っているうちに辿り着いたのは、街角にあるうらぶれた教会だった。下町においてはごくありふれた、実に質素な造りの建物である。表の小さな看板には《聖ウァレンティヌス教会》と書かれていた。

 

「私、卒業祝いにって後輩たちからメダイユを貰ったんです。お守りにしてねって。嬉しいですよね」

「では、院長さまに祝別をいただかなければなりませんね」

 

 戸を叩くと、ほどなくして中からひとりのシスターが顔を覗かせた。

 

「こんにちは。院長さまはいらっしゃいますか?」

「いまは奥で祈祷中だ。少し待って貰うが、いいか?」

 

 来訪早々、ぶっきらぼうに告げたその声の主は——ステファニー・テレジアであった。かつて〈ナンバーズ〉の長、〈ジョーカー〉の腹心を務めた元〈闇メイド〉だ。当時の彼女は〈キング〉という暗号名を名乗っていた。

 修道服を着たかつての敵にじろりと見られ、ナナは思わず萎縮しそうになってしまう。この人たちがもう敵ではないと分かっていながら、あの日、ロンドンで対峙したときのことを思い返せば無理もない話だった。

 〈例の場所〉——すなわち聖ウァレンティヌス教会。そこの修道院長を務める者の名は、シャルル・ド・アントリューシュ。かつて〈ジョーカー〉と名乗っていた、元闇メイドであった。

 

 ~~~

 

「私が言えた義理でもないが、卒業おめでとう。ナナ・ミシェーレ。よく頑張ったな」

 

 安楽椅子に座るシャルルに、「ありがとうございます」とナナは応える。

 この〈院長さま〉と面会する際は、いまでも著しい緊張を強いられる。何せ相手は、あのシャルル・ド・アントリューシュなのだから。

 〈ナンバーズ〉の長を務めていた頃の彼女をルルとともに打ち倒してから、二年と少々の歳月が流れていた。だが、鬱々と燃える暖炉の燠火を思わせるシャルルの赤き双眸の輝きは、あのときと寸分違わない。

 

「大した茶も出せずに済まない。ご覧の通り、変わらず質素な生活を営んでいてね」

 

 現在のシャルルは、ここ聖ウァレンティヌス教会の修道院長として暮らしている。修道院長とはいっても、ステファニーともうひとりのシスター以外、この教会に駐在する修道女は誰もいない。きわめて小さな所帯であった。

 

「改めて礼を言わせて欲しい。〈ナンバーズ〉の子らを救ってくれたのは、ルルのお陰だ」

「あの子たちに必要なのは、きちんとした教育の機会です。政府の強い要請で二年の更正期間を経なければなりませんでしたが、本当に大事なのは、不当な理由により奪われていた教育の機会を、再度与えてあげることに他なりません」

「お前らしい実利的な物言いだな。まるで更正過程に意味などないかのような言い方じゃないか」

「誰かから一方的に求められた更正で、果たしてひとは本当に生まれ変わることができるのでしょうか? 私には疑問です」

「フッ、〈王宮〉の連中が聞いたら卒倒しそうな文言だ。ミゼレーレを歌ったところで、誰しも天の御父の赦しを得られるわけではない——か。耳の痛い話だな」

 

 そう言って、シャルルは皮肉げな微笑を洩らした。

 

「〈ツー〉、〈スリー〉、〈フォー〉、〈ファイブ〉、〈シックス〉、〈セブン〉、そして〈エイト〉。ある者は理不尽な理由で教育の機会を奪われ、ある者は自らの意志で教育の機会を放棄した。私が言えた義理ではないが、再びやり直す機会を得た彼女たちには、できるだけ幸福な人生を歩んで欲しい。願わくば、私のようになって欲しくはない……」

 

 あの〈ロンドン事変〉の帰結——〈ナンバーズ〉構成員だった十四名のうち、十名が当局の手で逮捕された。残る四名、〈ナイン〉、〈テン〉、〈ジャック〉、〈クイーン〉の生死はいまもって定かではない。

 〈ツー〉、〈スリー〉、〈フォー〉、〈ファイブ〉、〈シックス〉、〈セブン〉、〈エイト〉ら年少の構成員たちは、ルルの言う通り二年間の更正施設への入所を経て、全員王立ファルテシア学園メイド学科の入学試験をパスしていた。もとが優秀な闇メイドたちであったのだから、当然の試験結果といえばその通りだ。

 一方で〈ナンバーズ〉の参謀役を務めていた元軍情報部付きメイド、〈エース〉ことアビゲイル・アークライトは、モミジの〈里〉で身柄を保護されていた。

 しきりに身柄の引き渡しを求めてくる軍情報部の要請を、モミジはいまもあの手この手でかわし続けている。彼らの手にアビゲイルが渡れば、秘密裏のうちに処刑されてしまう危険性があるからだった。彼女は軍の機密を《知りすぎている》立場にあった。

 

「しかし、こんな平穏な余生を営めていること自体、私はいまでも信じられない。あの日——ビッグ・ベンでお前たち二人と対峙した日、死ぬつもりだったのだからな」

 

 かつて〈ナンバーズ〉の長を務めたシャルルは、にわかに遠くを見つめるかのような眼差しを見せる。二年前——ビッグ・ベン跡地でルルとナナに打ち倒された彼女は、裁判にかけられることもなく、政治犯収容所に入ることもなく、メイド協会当局の監視下に置かれ、いまもこうして元〈キング〉ことステファニーと一緒に市井の生活を営んでいる。

 大ドイツの情報をこれ以上なく知り尽くしたシャルルとステファニーを、軍情報部や秘密警察の連中に引き渡すわけにはいかなかった。敵国の工作網がもはやファルテシア王国内のどこまで入り込んでいるか分からない以上、メイド協会自身の手で保護する必要があったのだ。その理由はアビゲイル同様、《知りすぎた》彼女たちを暗殺の危険から遠ざけるために他ならない。

 

「死に場所を求めた私の願いは叶わなかった。幸か不幸か——といったら、お前は怒るだろうか」

 

 シャルルの言葉に、ルルはゆっくりとかぶりを振った。

 

「幸福か否かというのは、結局のところ個々人の尺度でしか測ることのできないものです。私にそれを判断するすべは、何も——」

「お前らしい物言いだ」

 

 そう言うと思っていたよ、とでも言いたげな調子で、シャルルはわずかに微笑を浮かべる。

 

「あのときの私は、死に取り憑かれていた——より正確に言うと、最良の死に場所を求めていた。お前と戦って死ねたのなら後悔はない。一片たりとも。そう思っていた」

「あなたを死なせるわけにはいきませんでした……あなたが死んでしまったら、今度は私が孤独になってしまいます」

 

 そう言った瞬間、普段は穏やかなルルの声音に、少しばかりの激情が覗いたような気配があった。

 ルルとシャルルの対話に、ナナ自身、横合いから入ってゆくことなどできなかった。二人だけが分かち合う何かしらの聖域じみたものがあって、いま二人はその中で対話をしている。そんなふうに思えたからだ。

 あの日——ビッグ・ベン跡地でシャルルと剣を交えたときもそうだった。ナナはルルとともに戦いながらも、ルルとシャルルの間にある見えざる糸のようなものの存在を感じ、「悔しい」とさえ感じたものだった。そのときの感情を、ナナは少しばかり思い起こす。

 

「あの日、ビッグ・ベンの跡地で——武器を根本から叩き折られ、喉元に剣を突きつけられたあのとき。頭に浮かんだのはステファニーの顔だった。私としたことが、死を間近に感じたそのとき、こともあろうか愛する者の顔を思い浮かべてしまったのだ。生きたい——そんなことを思ってしまうほどに」

「……」

「私はもう、剣を握ることはないだろう。戦うことに……少し疲れた。ステファニーとの平穏な生活さえあれば、もうそれで充分だ。分不相応とすら感じるほどに」

 

 ルルは何も応えない。彼女はただ、どこか寂しげな表情を浮かべるのみだ。

 

「毎朝、殺めた者たちのために祈りを捧げる。懺悔の祈りだ。〈ハート〉もそうだし、大ドイツの兵士たちもそうだ。私は多くを殺めすぎた。命を奪い続けるうち、他ならぬ私自身が死に魅入られてしまったとは——当然の帰結という他ないな」

「……」

「幾度も祈りを捧げるうち、身勝手ながらもこう思った。生きてこそだ。生きてこそ、天の御父へこうして懺悔の祈りを捧げることができる。死んだ者に、懺悔の機会は訪れない——そんなことを、お前と、そこのナナ・ミシェーレが教えてくれた。礼を言おう」

「私が、ですか……?」

 

 急な名指しに、ナナは少しばかり困惑する。

 

「因果は巡るものだということを、あの日私は思い知らされたのだ。ナナ・ミシェーレ、お前の故郷の村を救ったのがマーム=シャルロットの部隊だったということは、知っているな」

「はい」

 

 幼き日の記憶が蘇る。傭兵団のならず者たちによって襲われた故郷の村。戦火の炎に巻かれる家々の景色。そして、村の窮地を救ってくれたメイドたちの勇姿。

 救出に乗り出してくれたのは、ルルの母親たる伝説の〈エスパティエ〉、マーム=シャルロットの部隊だった。あの日見たメイドたちの勇ましさがあってこそ、ナナはメイドに憧れ、こうしてメイドの道を志したのであった。

 

「あのとき、私はマーム=シャルロットの部隊に随伴していた。お前を救ったメイドたちのひとりだったのだよ、私は」

 

 ナナは驚愕に目を見開く。まさか、自分の村を救ってくれたメイドたちの中に、シャルルの姿もあったとは。

 

「私ばかりではない。モミジもあの部隊にはいたはずだ」

 

 更なる驚愕。ナナには、もはや返す言葉さえなかった。

 

「二年前、ビッグ・ベンの跡地で私の剣を叩き折ったのはお前だったな」

「はい」

 

 シャルルの言葉に、ナナはしっかりとした頷きを返す。忘れもしない。自分の剣が、確かにあの〈ジョーカー〉へ届いた瞬間の記憶だった。

 

「かつて救った命に剣を折られるとは、因果な帰結だとは思わないか? 私は思った。これは、忘れ去ったはずの過去がもたらした罰である、と。罪の購いの機会を天の御父が示してくれたのだと——いまはそう理解している」

 

 お前はとても筋が良い。モミジが見込んだのもよく分かる——まったく、生きてこそ、というのは本当だな、人生何があるか分からない。シャルルはそう言うと、少しだけ寂しげに微笑んだ。

 

 ~~~

 

「だからよぉ、イカサマなんかしてねぇって言ってんだろぉ?」

「嘘……さっきカードをすり替えるの見た……」

「マァマァふたりとも、喧嘩は良くないデスよ?」

「そうですよ。仲良くやりましょうよ、ね?」

 

 ロンドンから西へ向けて走る夜汽車の中、二等客車のボックスシートからかしましいやり取りが聞こえてくる。窓の外は既に陽が落ちて久しく、真っ暗だ。

 暖かな色合いのランプの下、座席に収まった少女四人はテーブルを囲み、トランプゲームに熱中しているようだった。全員が全員、王立ファルテシア学園の制服に身を包んでいる。

 この時期にロンドンから西へ向かう夜行に乗っている学生といえば——学期はじめの少し早い時期に寮へ向かう上級生か、もしくは入学式へ赴く新入生だ。四人の少女たちはまさしく後者。明後日の入学式に向けてロンドンを発った、学園の新入生たちである。

 

「駄目、シャッフルし直し……。私がやるから、カード貸して……」

 

 四人のうちの一人——そう告げた少女は、驚くほど背丈が高い。座った姿勢でも分かるほどの上背だった。彼女の名はソフィア・ルジッチ。トランシルヴァニア出身の十七歳。〈ナンバーズ〉所属時代は、〈ファイブ〉という暗号名を名乗った少女であった。

 

「チッ、お前の目はごまかせねぇ、か。わかったよ。今度はイカサマなしだ。ほらよ」

 

 四人のうちの一人——手札をソフィアに渡す少女は、目の下の隈と少しばかりの猫背が特徴的だ。彼女の名はロレッタ・チェンチ。ローマ出身の十六歳。〈ナンバーズ〉所属時代は、〈シックス〉という暗号名を名乗った少女であった。

 

「それにしても、みんな入学試験に合格できてよかったデスね!」

 

 四人のうちの一人——ロレッタの隣席で嬉しそうな声を上げるのは、美しく長い黒髪と整った顔立ち、浅黒い肌が目を惹く少女だった。彼女の名はザキーヤ・アヴドゥル・フセイン。リヴァプール出身の十六歳。〈ナンバーズ〉所属時代は、〈セブン〉という暗号名を名乗った少女であった。

 

「ザキーヤさんは合格点ギリギリでしたけど、良く頑張りましたね。私とソフィアちゃんが付きっきりで勉強を教えた甲斐があったというものです」

 

 四人のうちの一人——ソフィアの隣、ザキーヤの真向かいに座る小柄な金髪の少女は、そう言ってにこやかに微笑んだ。彼女の名はローザ・フロイデンタール。ザルツブルク出身の十三歳。〈ナンバーズ〉所属時代は、〈ツー〉という暗号名を名乗った少女であった。無論、その膝元には愛鳥のフリードリヒを収めた鳥籠がある。

 

「モニカとリリアーヌ、フェンは、いまごろ寮に着いている頃合いでしょうか」

「だろうな。しかし、互いを本名で呼び合うのはいまだに慣れねぇ」

「慣れていくしかない……私たちは、これから新しい人生を歩むんだから……」

 

 ローザ、ロレッタ、ソフィアの三人がそれぞれ言い、ザキーヤが頷いた。モニカとは〈スリー〉の本名で、リリアーヌは〈フォー〉の本名、フェンは〈エイト〉の本名だ。〈ナンバーズ〉時代の暗号名を捨てた彼女たちは、王立ファルテシア学園メイド学科の入学を許され、こうして西へ向かう汽車に揺られている。

 すべてはルル・ラ・シャルロットの計らいだった。もとより優秀な闇メイドであった彼女たちへ正規のメイドとしての育成課程に進むよう薦め、彼女たちもその提案を受け容れた。

 彼女たちの中に、自ら望んで闇メイドになった者など誰一人いなかったからである。やり直せる機会が得られるのならば、ルルの提案は是非もない話であった。

 

「でも不安デス……勉強、ついていけるのでしょうか。落第生は容赦なく放校処分にされるって聞きマス」

「アタシも勉強は苦手だ。ま、ここは助け合いの精神でだ。秀才のソフィアとローザに一肌脱いで貰おうじゃん?」

「駄目。勉強くらい、ちゃんと自分で頑張って……」

 

 ソフィアがぴしゃりと告げた瞬間だった。金属同士が擦れ合う甲高い音とともに車内が何度も大きく揺れ、いくつもの悲鳴が客車内に轟いた。汽車が急ブレーキをかけたのだ。

 ローザの小柄な身体をソフィアが庇(かば)い、ザキーヤとロレッタは衝撃に身を投げ出されないよう、脚を必死で踏ん張った。

 ややあって、悲鳴は困惑と焦燥を孕むざわめきに変わり、次第に沈黙へと変わった。不安がる乗客たちの中、真っ先に気づいたのはロレッタだった。

 

「畜生、傭兵団の連中か……」

 

 窓を開け外を伺うと、それぞれ馬に跨がり武装した連中が、暗がりの中で松明(たいまつ)を手に前方の線路を塞いでいる様子が見て取れた。鉄路上に巨大な置き石まで設置しているようだった。

 となれば十中八九、待ち伏せだろう。この列車に繋がれた貨物と、乗客が持っている金品を狙っていると見て間違いない。外には幌つきの馬車まで横づけされているのだから、女や子どもを攫(さら)う狙いもあるように思われた。

 

「……どうする?」

「戦うのは……得策じゃねぇな。武器がない。素手で応戦するにしても、あの数だ。それに人質を取られちゃ手の出しようがなくなっちまう」

 

 ソフィアの問いに、ロレッタが応じた。瞬く間に敵情分析を終える手際は、〈ナンバーズ〉時代のコンビネーションを思わせるものだ。

 

「では彼らの所業を、ここで黙って見ていろとでもいうのですか? 私たちだって無事で済む保証はありません」

「何か……手の打ちようはあるはずデス」

 

 そのとき、客車前方の扉が勢いよく開かれた。傭兵団の連中が上がり込んできたのだ。

 

「金目の物を全部出せ! それと、女と子どもは外へ並べ! 全員だ! 早くしろ(ハリー)!」

 

 鎧を着た、いかにも屈強そうな大男が胴間声を張り上げる。乗客たちは恐ろしさのあまり悲鳴を上げた。

 

「……アタシに任せな。考えがある」

 

 どこに所持していたのか——折りたたみ式のナイフを袖に隠したロレッタが、決然と告げる。

 

「まずは奇襲を喰らわせる。初撃でひとり殺(や)れりゃ、心理面でこっちが優位に立てる。二撃目からはバックアップが必要だ。ソフィア、ザキーヤ、頼めるか」

 

 二人分の頷きが返ってきた——だが、次の瞬間だった。

 

「チッ、こいつはプラン変更だな……」

 

 客車へ乗り込んできたならず者たちの中に、見知った顔を認めたのだ。いや、より正確に言うのならば、二度と思い出したくない顔——といった方が適切だろうか。

 

「あらあらぁ? そこにいるのは——〈ファイブ〉と〈ナイン〉、〈セブン〉、それに〈ツー〉じゃありませんかぁ!」

 

 場違いなまでに陽気で、妖艶な声音が聞こえてきた。その声の主は他でもない。トレイシー・ベッドフォードだ。〈ナンバーズ〉時代は〈ナイン〉の暗号名を名乗っていた女である。かつては〈首斬りトレイシー〉と呼ばれ、莫大な懸賞金をかけられていた傭兵団の元首領に相違ない。

 そんな彼女がなぜここにいるのか……? 考えるまでもない話だった。〈ロンドン事変〉で逃げおおせた彼女は、傭兵団の元鞘に収まっていたのだ。

 

「生憎とその名前は捨てたんだ。いまはカタギになったからよ。ロレッタ・チェンチと呼んでくんな」

「フフフ……あなたの口から《カタギ》なんて言葉が出てくるなんて、驚きですわぁ」

 

 腰に刷(は)いたバスタードソードを抜く気配もなく、トレイシーはロレッタたちの座るボックスシートめがけ、ゆっくりとした歩みで接近してきた。警戒している様子はまるでなかった。

 奇襲をかけるのならば、いましかない——そう判断し腰を浮かせた、そのときだった。

 

「おっと!」

 

 背後からナイフを隠し持った腕を掴まれ、ロレッタは思わず絶句する。

 

「こんなオモチャでトレイシーを殺(や)れると思ったか? フフ……相変わらずの甘ちゃんだ、君は」

 

 〈テン〉——オルガ・J・エインフェリアの姿が、ロレッタのすぐ背後にまで迫っていた。腕を捻られ、ロレッタは激痛に呻いた。床に落ちたナイフを、オルガは足蹴にして遠くへやる。手慣れた所作だ。

 それにしても、近寄られる気配すら感じなかった。無論、ロレッタだけでなく、ソフィアとザキーヤも驚愕している。まさか、こんなところで《最悪の二人組》との再会を果たすとは、思いも寄らなかったからであった。

 

「……いつ、アタシの背後を……取った」

「相変わらず口の利き方がなっちゃいないな」

「ぐあっ……痛ってぇ……ッ! 何しやがる……!」

「ロレッタに……手を出すな……!」

 

 立ち上がったのはソフィアだ。オルガを赤い瞳で睨み据え、怒りに震える声で彼女は告げる。

 

「それ以上のことをしたら……私はお前を容赦しない……!」

「ククッ……臆病者だったお前が、そんなに勇ましい台詞を口にするとは。変わったな」

 

 オルガはロレッタの腕を更に深く捻りながら、余裕たっぷりに微笑んだ。同時にロレッタが甲高い絶叫を上げる。腕の関節をより深く極(き)められたからだ。

 

「こいつ……ッ!」

 

 ソフィアが言うが早いか、傍らを影が通り去った。ザキーヤがその場から一挙動で跳んだのだ。しかし——トレイシーがその場で身体を捻り、右脚を軸にした廻し蹴りを打ち放った。オルガへ飛びかかろうとするザキーヤを叩き落とす目的だ。

 動体視力が追いつかぬほどの速度で振るわれた爪先を、ザキーヤは前腕をクロスさせながら受け止めるが、しかし勢いを殺し切るまでには至らない。

 

「ぐっ……!」

 

 呻くと同時——蹴りの衝撃で吹き飛ばされたザキーヤは、背中から客車の窓ガラスに激突し、そのまま外の暗闇へと放り出された。衝撃とともに飛散したいくつものガラス辺があたり一面に降り注ぎ、彼女は地面の砂利を幾度も転がる。

 

「あんたさぁ……弱いクセに盾突いてんじゃないわよぉ」

 

 嘲笑じみた声がザキーヤの頭上から降ってくる。虚ろな彼女の視界には、バスタードソードを抜いたトレイシーの姿が映っていた。しかし、もはや反撃に転じる力など残されてはいない。背中を打ちつけた激痛に耐えながら、ザキーヤは悔しさを噛み締めた。

 

「偶然の再会——ってヤツかな」

 

 今度は背後から声が聞こえた。これもまた、聞き覚えのある声であった。〈ジャック〉——かつてそう名乗っていた幼き殺人鬼が、冷徹な眼差しを湛え、倒れたザキーヤのことをトレイシーとともに見下ろしている。

 

「いやぁ、驚いたよ。こんなところでまた会うなんて」

「ザキーヤに……触るな……!」

 

 車中の割れ窓から飛び出てきたソフィアが叫び、〈ジャック〉めがけて突っ込んでいった。だが、トレイシーのバスタードソードがそれを阻む。剣圧の一撃でソフィアを木っ葉同然に吹き飛ばす間、トレイシーはその場から一歩も動いてすらいない。

 

「だからさぁ、雑魚が何匹揃ったところで同じだっての」

 

 トレイシーは苛立たしげに言うと、甲高い口笛を吹き鳴らした。すると傭兵団の男たちがやってきて、ザキーヤとソフィアを手早く縄で拘束した。

 

「離せッ……やめろ……!」

「何するデスか……ッ!」

 

 〈ジャック〉は口の端を歪な形に曲げながら微笑むと、「闇市場でメイドは高く売れるんだ。若ければ若いほど高く売れる」と静かに告げる。その口調の静けさが、かえって言っていることの邪悪さを助長するかのような趣であった。

 

「聞いたよ。カタギになるんだって? 闇メイドから足抜けして? 普通のひとのように暮らすって? ハハハ……ハハハハハハハッ、冗談はよしてくれよぉ!」

 

 〈ジャック〉は哄笑を上げる。心の底から可笑しい、とでも言わんばかりの勢いだった。

 

「何が……おかしいデスか……!」

「どこまで行こうが、私たちは闇の中で生きるしかない。こうして偶然にも再び出会えたことが、何よりの証左だ。闇に生きる者は、望むと望まざるとに関わらず、見えざる力によって引かれ合うようにできている——それがこの世の摂理ってやつさ。諦めな」

 

 ソフィアとザキーヤは、自らの唇をきつく噛んだ。圧倒的な暴力に蹂躙され、なすすべもないまま、自分たちは「普通の人生をやり直す」その一歩手前で夢を挫かれ、目の前のならず者たちの手によって闇市場へ売り飛ばされる。

 そんなことが……あっていいはずがない。そう思う。しかし、現実は非情であった。

 

「この人でなしどもが……ッ!」

 

 傭兵団の男たちに引き摺られてきたロレッタが、凄まじいまでの視線で〈ジャック〉を睨んだ。だが、幼き殺人鬼は動じない。

 

「ボス……お取り込み中、すみません」

 

 と、そのとき。傭兵団たちのひとりが〈ジャック〉の傍らへ傅(かしづ)いた。恐る恐るといった調子であったが、しかし男の顔は何かに焦っているかのような趣にも思えた。

 

「何だ」

「外周警戒班から報告。何者かがこの列車へ近づいていると——」

 

 男の言葉はそこで途切れた。凄まじいまでの閃光が炸裂し、次いで勢いよく噴き出す煙が辺り一面を覆い尽くしたからだ。

 何が起きたのか——ロレッタにも、ザキーヤにも、ソフィアにも、そして〈ジャック〉たち傭兵団の者にも分からなかった。ただひとつ、わかったことがあった。これは何者かによる、傭兵団への奇襲攻撃だ。煙幕による目くらましが、その証左だった。

 幾重もの叫び声が白煙の中にこだまし、剣の唸りが白線の煌(きら)めきとなって迸(ほとばし)った。誰かが傭兵団相手にたったひとりで大立ち回りを演じている。

 

「そこまでです!」

 

 凜然とした声が響き渡った。白煙が次第に晴れてゆくと、傭兵団の屈強な男たちがそこかしこに倒れ伏している様が目に入った。歴戦の元闇メイドであるロレッタたちにはすぐに分かった。奇襲攻撃を仕掛けた何者かは——相当の手練れだ。

 混乱した傭兵団の馬たちが激しく嘶(いなな)き、〈ジャック〉と、トレイシーと、そしてオルガは、晴れゆく煙幕の向こう側に立つ人物と相対している。

 

「お前、あのときのメイドだな……ナナ・ミシェーレ……!」

 

 オルガが唸りを立てる狼のような気配を発し、そのように告げた。

 忌々しげに発せられたその名を聞き、ロレッタたちははっとなって顔を上げる。雲間に覗く満月を背に、芦毛の馬に跨がったメイドが傭兵団たちと対峙していた。その胸に輝く徽章は——〈エスパティエ〉。当代随一のメイドにのみ送られる、選ばれし者の称号に相違ない。

 徽章の持ち主の名はナナ・ミシェーレ。かつての〈ロンドン事変〉にあって、〈ナンバーズ〉の長〈ジョーカー〉をルル・ラ・シャルロットとともに打ち倒した英雄だ。そんな彼女は、荒くれ者の傭兵団を前にして、一歩も退く気配を見せていない。

 

「大人しく投降してください」

 

 だが、ナナの言葉に応じる者はいない。

 

「はっ、これもまた、運命の再会ってやつか……」

 

 両手の五指にナイフを携え、〈ジャック〉が嗤う。トレイシーはバスタードソードを正眼に構え、オルガは腰の剣を二本抜いた。全員が全員、目の前にいる〈エスパティエ〉——ナナ・ミシェーレと本気でぶつかり合うつもりでいるのだ。

 

「ナナさん!」

 

 ロレッタは叫ぶ。運命の再会というものがあるのだとしたら、これこそが、これこそがまさしく——そうなのではないか。そう思うと同時、馬上からウインクを返すナナの姿が視界に映った。

 

「やっちまえ!!!」

 

 殺気立った〈ジャック〉の声が轟いた。瞬間、幾人もの男たちがナナめがけて踊りかかる。だが、馬上にいるナナは怖れる素振りさえ見せていない。

 

「行くよ! フォックス!」

 

 愛馬の名を呼び、ナナは真正面から傭兵団の群れへ突撃した。いくつもの剣戟(けんげき)が響き渡り、ひとり、またひとりと傭兵団の男たちを斬り伏せて——更にトレイシーやオルガさえ寄せ付けず、そして気づけば、ナナは〈ジャック〉と一対一で切り結んでいた。

 

「——すげぇ」

 

 ロレッタは無意識に呟く。心の底から、目の前のナナの強さと、美しさと、そして清らかさに圧倒された心地だった。ここまでのメイドになるために、彼女は一体どれほどの修練を積んだというのだろうか——。

 ここまでのメイドに、自分は果たして自分はなれるだろうか。そんなことさえ、ロレッタは無意識のうちに考えた。その胸のに芽吹こうとしている憧憬の感情を、彼女自身、いまだ自覚さえしていない。

 

「大丈夫——?」

 

 馬から下りたナナが、そっと手を差し伸べる。気づけば傭兵団たちの誰も彼も、動ける者はもう誰一人いないようだった。

 

「立てる——?」

 

 差し伸べられた手をロレッタはしっかりと掴み、そして応る。

 

「大丈夫。立てるさ——あんたらが示してくれた通り、アタシらは自分たちの足で立って歩く」

 

 凜然としたナナの目を、真っ直ぐな瞳で見つめ返す。

 

「ひとつ、目標ができた。アタシはアンタみたいなメイドになる——学園を卒業したら、アタシはアンタの隣に立てるようなメイドになってやるぜ」

 

 そう言うと、ナナは悪戯っぽく微笑み、こう返した。

 

「うん、〈王宮〉で待ってる。絶対、立派なメイドになって戻ってきてね」と。

 

〈完〉

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最後まで​ご愛読いただきありがとうございました!!

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