第8話
「彼女の命運が決した理由(後編)」
一本目の勝負を終えたジュリアは、ナナの戦力評価を少しばかり上方修正し、二本目の勝負に臨もうと考えていた。だが、それは相手の馬のスピードが想定よりも遙かに優れていたがゆえの評価である。一方で長槍(ランス)の扱いは稚拙そのものであり、警戒には値しないという判断を下していた。例の中国武術の技を警戒していたが、それを繰り出す余裕はないように見えたからだ。
考えてみれば当たり前の話だった。以前ナナたちが特訓で使っていた木製の槍と、ジョスト本戦で使う本式の長槍(ランス)は長さが倍以上も異なるのだ。さらに重量も違えば取り回しの難易度も違う。であるからして、同じ要領で扱える代物では到底ない。
やはり付け焼き刃の技に相違なかったか、と思いつつ、あのフォックスハントなる馬の能力だけは脅威だと気を引き締める。
「二本目————はじめ!」
合図とともに馬を駆る。侯爵家の名誉を背負ってこの場に立っている以上、負けは絶対に許されない。かといって、派手な勝利によって過度に目立つことも避けなければならないとジュリア自身は考えていた。自分はお嬢の『影』にすぎない——『影』そのものが『影』をかたちづくる主体より優れていることなど、あってはならないからだった。
あらゆること——勉学であったり、武芸であったり、メイドの庶務に関わる実技であったり、そうしたものごとにおいて、これまでジュリアはエリザベートの一歩後ろを歩む心積もりで取り組んでいた。目映い光に照らされた主人の足下に伸びる、自分はひとつの『影』にすぎないのだ——そう自分に言い聞かせながら。
無論、ナナを完膚なきまでに打ち負かそうと立ち回れば、彼女を派手に馬上から叩き落とすことも可能だった。しかし、それでは主人よりも目立ってしまう。適度に自分の力を抑え込む必要性をジュリアは感じていた。
残りの勝負は二本。あくまで本気を出さずに勝利する——ジュリアはそう心に決めていた。
勝てば学園新聞の記者たちから勝利者インタビューを受けることになるだろう。「そのときに備えて、受け答えを考えておきなさい」とエリザベートは言っていたが、記者連中には「私よりもお嬢はもっと強い」とでも答えておこうか——それ以外、特に言うべきことがあるようにも思えなかった。実際、本気でジョストをしたときエリザベートに勝てるかどうか、ジュリアは未知数な部分を感じていたからだ。
考えを巡らせている間に、ナナの馬との距離が急速に縮まる。交錯。激しい衝突音が轟くと同時に、ジュリアの放った一撃がナナの長槍(ランス)を叩き落とした。視界の端で三人の審判が赤の旗を掲げているのを確認する。一本先取。落馬させようと思えばできたはずだが、相手の馬のスピードがあまりに速く、長槍(ランス)の狙いがほんのわずかに逸れたというのが正直なところだった。しかし、軌道修正は可能な範囲だ。
次は確実に勝負を決める——経験者相手に三本目まで粘ったナナ・ミシェーレの努力を、少しは認めてやってもいいのかもしれない。そんなことをジュリアは考えはじめていた。
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「はぁ……はぁ……」
フォックスハントに跨がるナナは兜を外し、リン、ニコル、カエデのもとへ戻ってくる。最後の三本目を前にして、緊張も疲労も既に限界間近といった様子である。肩で息をしている様子からも、それは明らかなように思われた。
一方、続けざまに二回も全力疾走したというのに息ひとつ乱さないフォックスハントは、さすが名馬の子といった風情だった。「仕事はした」といった具合にニコルへ追加のシュークリームを要求する仕草は、何ともいえず人間くさい。
「泣いても笑っても次で勝負が決まります。集中力を切らさないでくださいね」
「そ、そんなこと言われても、もう無理だよぉ……」
「ナナさん、あなたは何のためにこの一週間を耐えてきたのですか」
「不戦敗は、退学処分になっちゃうから……」
「? 何ですかそれ? そんなルールは知りませんが?」
「え??」
小首を傾げるリンに対し、ナナは素っ頓狂な声を上げた。ちょっと待って欲しい。レディントン先生の言っていたあのルールとは何だったのか? 学園の他の教師に話を聞き、同じ返答を得ることで、その話は裏まで取っていたはずなのだ。それをリンは「そんなルールは知らない」と言い放った。では、あのルールの話は一体——? ナナは混乱の極みにあった。
「ちょっと待って!? そんなの聞いてないんだけど!」
「それより次の三本目です——ナナさん、笑ってください」
「???」
「いいから、笑ってください」
何がなんだかわからないまま、ナナはぎこちない笑みを浮かべる。疲れと緊張と混乱から、いかにも不格好な笑顔になってしまった。
「前にも言ったはずです。相手の出方をよく見ること——そのためには、ニコッと微笑む眼を意識することです。いまのナナさんは全身に力が入っています」
そう言われ、ナナは知らず身体に力が入っていたことを自覚した。
「それでは脱力はままなりません。眼の力を抜くのです。そうすれば肩の力も抜け、身体も自然体になり、心身ともに闊達(かったつ)になります」
「こ、こうでいいかな……」
「うーん、作り笑いみたいでイマイチです。何か楽しいことを思い浮かべてみては?」
大観衆の中、最後の一本を控えた状態で緊張を解いて笑えというのは無理難題に相違なかった。何か楽しいことを思い浮かべろと言われても、落馬させられたらどうしようとか、長槍(ランス)で思い切り突かれたら痛そうだとか、そんなことしか思い浮かばず、とても自然に笑えそうにはなかった。
「そうですね……ニコルさん!」
「え、私!?」
何やら考え込んだリンは、おもむろにニコルの名を呼んだ。声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。ニコルはびくっと身体を震わせながら、調子はずれな声を上げた。
「シュークリームをナナさんに」
「う、うん。わかった」
おそるおそるフォックスハントに近づいたニコルが、籠の中のシュークリームを馬上のナナに向けて差し出す。舌なめずりをしたフォックスハントがそれを横取りしようとするのを、ニコルは慎重に避けながら手渡さなければならなかった。
ふわふわとした生地をひと囓りすると、上品な甘さが口のなかいっぱいに広がった。真の幸福とはこういう心地のことを言うのだろう、とさえ思えてくるほどの美味しさだ。ナナの大好物はシュークリームだが、ニコルお手製のそれは特別な逸品なのだ。生地は真綿のようにふわふわとしていながら、その実歯ごたえはサクサクとしており、中身には甘く濃厚なカスタードクリームが詰まっている。その甘さが「程よく」の塩梅を極めたかのごとく絶妙で、かつ気品溢れる風味を保っているのが特色だ。
料理研究会主催の茶会においても、ニコルのシュークリームは特別に高い評価を受けている。学園中の料理の腕自慢が集う会において「空前絶後のひと品」との品評を受けたそれは、確かにフォックスハントでさえも大人しくなる極上品だとナナは思った。暴れ馬さえも鎮めるシュークリーム——そう考えると少しだけ可笑しげな気持ちになり、ナナはふふっと少しだけ笑った。
「それです、その顔です」
我が意を得たりといった調子でリンが言った。
「微笑むと、肩の力が抜けて楽になったのがわかったはずです。いかがですか?」
「確かにそうかも……」
眼の力が抜けると顔も緩み、自然と肩の力も抜けて楽になるのが感じられた。狭まっていた視野も心なしか広くなったような心地さえするほどだった。リンの言っていたことの意味を、ナナは直観で理解した。
「それにしても、シュークリームひとつで気分が変わるなんて、ひょっとしたらナナさんとフォックスは似たもの同士なのかもしれませんね」
リンの言葉に対し、フォックスハントがいかにも不服そうな調子で鼻を鳴らすと、ニコルやリサもつられて笑った。
「もー、リンちゃん! 馬鹿にしてるでしょ!」
ナナがぷんすか怒った素振りを見せ、フォックスハントが更に鼻を鳴らすと、リンとニコルとリサは更に笑った。
「ともかくです、さっき笑ったときの顔を忘れないでくださいね。我々の秘策のためにはナナさんの『脱力』が必須なのです——」
そして、リンは不敵ともえいる笑みを浮かべながら言い放った。
「——三本目は我々の奥の手、〈形意五行槍〉の技を解放します。ナナさん、どうせやるなら勝ちましょう。ここにいる皆をあっと言わせてやるのです!」
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「次で決めます。確実に」
エリザベートのもとへ戻るなり、ジュリアは決然とした調子で宣言した。彼女の跨がる〈デフィニティーヴォ〉という名の鹿毛の雄馬は、二本目で勝負を決められなかったがゆえの不満からだろうか——鶴首を幾度か上下に揺らし、「バルッ!」とひとつ鼻を鳴らして、自らの興奮を主人に向けて主張した。
「一本目は相手の馬のスピードに意表を突かれました。二本目はそのスピードがゆえに長槍(ランス)の狙いが少しだけ逸れました」
「ねぇジュリア……」
「ですが、次で確実に合わせられます。お嬢が心配することは何も——」
「ジュリアってば!!」
己が主人の発した大きな声に、馬上のジュリアはエリザベートの顔をまじまじと見た。彫像のような整った顔立ちに、少しばかりの怒りと、そして悲しみが同居しているように思われた。お嬢は自分の戦い振りの不甲斐なさに対してそのような顔を浮かべているのだろうか——ジュリアは瞬間的にそう思った。だが、続いて出てきたエリザベートの言葉は想像とは異なるものだった。
「私を『立てよう』なんて思わないで。お願い……あなた自身の力を出し切って戦って。ジュリア、あなたはいつも……」
「お嬢」
ジュリアはエリザベートの言葉を遮った。
「言ったはずです。心配には及びません。侯爵家の名にかけて、初心者相手に恥ずかしい戦いなどできるはずもありませんから——」
だがその言葉に、エリザベートはますます顔つきを険しくさせるのみだった。お嬢は一体何を気にしているのだろうか。ナナ・ミシェーレ相手に負けることを心配しているのなら、それは杞憂に終わるだろう——ジュリアはそう思い、三本目の勝負に臨もうとしていた。
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五〇ヤードほど先に馬場を望む、職員棟と図書館の間を結ぶ渡り廊下——そこでオペラグラスを片手に決闘を見守るふたりの人物がいた。ひとりは学園講師のアヴリル・メイベル・レディントン。その傍らには、ジュリアの実姉にして〈フォルセティ〉の一員であるシエナ・フィナンシェが控えている。長身でスタイルの良い二人が居並ぶ様は、「絵になる」という形容がぴたりと当てはまるようだった。
「ジュリアの『あれ』は非常に厄介な悪癖だ。矯正には難儀するだろうな」
「生来の石頭であればなおさらです。なまじ昔より成長して知恵をつけている分、より厄介といえるでしょうね。癖馬(くせうま)も子馬であれば調教は容易ですが、成長した馬を調教し直すのは簡単ではありませんから」
アヴリルのコメントにシエナが答えた。
「ひとつ訊きたい。ジュリアは昔からああだったのか?」
返答までに、少しばかりの間があった。その理由をアヴリルは問い質したりなどしなかった。
「いえ、昔は素直で良い子でした。確かに少し変わったところはありましたが、いまのような偏屈さは見られませんでしたね……」
「あのまま一人前のメイドとして〈協会〉に送り出して良いかというと……まぁ、そうではないだろうな」
「同感です」
二人が言い募る間に、三本目の勝負に挑む両者は互いのスタートラインへ馬を移動させはじめていた。いよいよ最後の一本がはじまるのだ。
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集中しなきゃ——そう自分に言い聞かせ、ナナは相手の方に向き直る。甲冑を纏ったジュリアの顔は遠くからでは当たり前のことながら判然とせず、いやが上にも緊張感が煽られる。
勝負は一本目が引き分けであり、二本目はジュリアが技ありを取っている。三本目でナナがまたしても技ありを取られれば敗北が確定し、引き分けでも同様に敗北が確定するわけだ。逆にナナが勝つ目があるとすれば、技ありを取って四本目の延長戦に持ち込むか、一本勝ちを狙うかの二つしかない。追い込まれた状況というのが相応しい次第だった。最低限引き分けに持ち込めれば良いジュリアと異なり、ナナが勝つために取れる選択肢は、そう多くない。
作戦はリンから既に伝えられている。あとはそれを実行するだけという段なのだが、そのためには多大な勇気が必要だった。ここに至るまでの経緯はどうあれ、親身に協力してくれた友だちの前で、無様な負けっぷりを晒したくないという気持ちもある。「やるからには勝つ」というのはリンのいつもの口癖だったが、ここまで頑張ってきて負けるというのは確かに悔しい。フォックスハントから落馬し続け、全身に打ち身や擦り傷を作り、槍の特訓ではリンに思うさま小突かれ生傷をたくさん作ってきたこの一週間の努力を無駄にしたくなかった。だが、相手はジュリアだ。本当に、やれるのか——。
そう思いながら、しかしナナは兜の下で極力自然体な笑顔を作るように心がけた。相手の裏を搔く奇襲に打って出るためには、脱力することが必須要件であったからだ。
自分を支えてくれたみんなのために——ナナの意志はそうして固まり、そして勝負の開始を告げる声が轟き渡る。
「三本目————はじめっ!」
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ジュリアは掛け声とともに馬を走らせ、加速させ、加速させ、加速させる。
愛馬に名づけられた〈デフィニティーヴォ(究極)〉の名は伊達ではない。彼は侯爵家随一の名馬であり、その特筆性は操縦性の高さにあった。走れと命じれば即座に駈け出し、止まれと命じれば即座に止まる。基本的な事柄ながら、騎手との呼吸の合わせやすさという点において彼に追随する馬はジュリアの知る限りいないはずだった。
確かにあのフォックスハントとかいう芦毛の牝馬に較べればスピードでは劣るだろうが、しかしデフィニティーヴォと学園一の暴れ馬であるフォックスハントでは、こと操縦性という点において天と地ほどの開きがあるはずだ。ましてやナナは馬に乗れるようになってからまだ数日しか経っていないのだから、複雑な手綱捌きなどできるはずもない話である。
一方で、ジュリアはあのシチリアの〈別荘〉において徹底的な馬術の訓練を受けている。狩猟は貴族の嗜みのひとつであり、主の狩猟に同行するのにおいて馬に乗る訓練は必須であったから、ジュリアはあらゆる複雑な手綱捌きを遂行することが可能だった。そう、例えば——。
ナナとの距離が縮まり、長槍(ランス)の間合いまであとわずかというところ。ジュリアは左手側の手綱を操り愛馬へ命じた。「横に跳べ」と。
ジュリアは長槍(ランス)を構えながら、ナナの走路との間を隔てる埒(らち)から馬一頭分遠ざかるようにして、疾駆する愛馬にサイドステップを踏ませていた。こうすることでナナの狙いは確実に逸れることになる。槍の扱いからして、瞬間的な軌道の修正は不可能なはずだ。一方で、ジュリアは有利な状況から長槍(ランス)の攻撃を繰り出すことが可能となる。その技巧に観衆が大歓声を上げるのが聞こえる。
決まった——そう思った刹那、ジュリアはある違和感に気づいていた。
(笑っている——?)
それは直感的なものに違いなかった。ナナの表情はフルフェイスの兜に覆われていて見えるはずもない。しかし、ジュリアは確信していた。この状況でナナ・ミシェーレは笑っている。なぜだ——? 疑問はさざ波のように胸中へ広がる。だが、勝負はもう決まったも同然だ。いまさら何を気にする必要がある? ジュリアはそう思った。長槍(ランス)の穂先が、ナナの甲冑の胸当てめがけて吸い込まれるようにして突き刺さったからだ。この一撃で、終わらせる——!
ガンッ、という凄まじい音が響き渡る。当たった——そう思ったと同時に、ジュリアの視界が真っ赤に染まった。そして、すさまじい衝撃が全身を突き抜ける。
「え?」
自分でも信じられないほど間抜けな声を上げながら、ジュリアは背中から地面に激突した。衝撃、痛み、混乱、羞恥、屈辱——あらゆるものごとが彼女を襲い、そして観衆の喝采という喝采を遠くに聞き、見えたのは、夕暮れの空を流れる茜色の雲だった。
ああ、視界が赤く染まったように感じたのは、あの空と雲の色だったか——ジュリアは場違いにもそう思い、次いで頭をよぎったのは、幼い頃ポジリポの丘でエリザベートと眺めたナポリの海の夕焼けだった。なぜいまこのタイミングでそんな記憶が蘇ったのか定かではない。だが、あの夕焼けはとても綺麗で、美しかった……エリザベートと一緒に、あの綺麗な夕暮れの海を眺めていた時間が、とても懐かしい……。
そう思っていると、頭上から自分を見下ろすナナ・ミシェーレの顔が目に入った。馬から下りてこちらまで全速力で走ってきたのだろう。兜を外した彼女は息を切らし、髪の毛は汗で乱れに乱れ、その顔は相手を気遣うかのような表情を浮かべている。
「大丈夫ですか、ジュリアさん!」
「槍が……『消えた』な。何だ、あの技は……」
「ジュリアさん、しっかりしてください!」
「あの技は何だと聞いている……」
ナナに助け起こされながら、ジュリアは決着の瞬間を呼び起こす。当たったはずの彼女の一撃を円形に「巻き込む」ようにしてナナの長槍(ランス)が突き込まれ、馬上からものの見事に叩き落とされた一瞬の出来事。見事なまでのカウンター。呆気に取られるという言葉は、あのような心持ちになったときのためにあるのだろう。
「あれが例の中国武術(カンフー)か……」
「〈炮槍(バオ・スピアー)〉っていうらしいです。リンちゃんが教えてくれました」
「後の先を取られるとは、迂闊だった……その技を使う余裕はないと決めつけていたからな……」
「ジュリアさんの出方を見てからでも〈炮槍(バオ・スピアー)〉は絶対に届く。相手の技の力を利用するから大丈夫だって、リンちゃんは言っていました。私は半信半疑でしたけどね」
ナナはえへへと笑いながら、ジュリアに肩を貸してくれていた。観客たちは、ナナの一本勝ちという大番狂わせに大きな歓声を上げている。まともに戦えばまず負けないというのは、ジュリア自身の油断でもあり、また観客たちの思い違いであったということを、まざまざと見せつけられた格好だった。
「優秀な軍師をつけた分、お前は最初から戦いを有利に進められたというわけだ。二本目まで中国武術(カンフー)の技を使わなかったのは、私を油断させるためだろう? まったく、私としたことがあの小娘に手のひらの上で転がされていたというわけだ。実に情けない……」
そこでジュリアは「うっ」という声を上げ、膝をつきそうになるところをナナに助け起こされた。
「どこか痛みますか……?」
「大丈夫だ。問題ない……」
「とにかく医務室へ行かないと」
ひとりで歩けるから心配ない、とでもいうかのようにジュリアはかぶりを振った。だが、ナナはそれでも肩を貸すのをやめようとしない。とてもひとりで歩けそうにはないからだった。足を捻っている可能性もあったから、校医に診てもらう必要も感じていた。
「ジュリア!」
と、そこでエリザベートがジュリアのもとへ駆け寄ってきた。息せき切らす彼女の表情は、ジュリアに対する心配一色に染められている。
「お嬢……申し訳ありません、私の不覚のせいで……」
「怪我はない!? 大丈夫!?」
息を切らし、従者の身を案じる主人の様子を、ジュリアは直視することができなかった。そもそも自分が油断せず勝利を収めてさえいれば、衆目の前でエリザベートにそんな顔をさせることはなかったのだ。すべては自分の慢心がゆえのことだった。楽に勝てる相手だとナナ・ミシェーレを見くびった自分を、ジュリアは心底呪い、そして言った。
「すみません、お嬢。少しひとりにさせてください。厩舎に馬を戻してきますので……」
そう言ってナナの肩から腕を解き、ジュリアは主に背を向ける。遠くの方では、ちょうど馬術部員たちが放馬したデフィニティーヴォを馬場の片隅まで追い込み、手綱をつかまえているところだった。背後では、学園新聞の記者たちに取り囲まれたナナがインタビュー責めになっている気配がうかがえる。
そして、ジュリアはふと空を見上げた。茜色に染まった美しい雲が、複雑な陰影を形づくりながら上空を音もなく流れてゆく。あのナポリの夕暮れを思い起こし、次いで幼いエリザベートの笑った顔を思い起こし、そうしたあれこれは有象無象の感情の渦に呑み込まれて消え、やがてそれは敗北の悔しさひとつとなって結実した。
あのとき、三本目の勝負が始まる前のあのときだ。エリザベートが言おうとしていたことは何だったのか。考えるまでもない話だった。そう、自らの主人はきっとこのように言っていたのだ。「本気を出せ」——と。
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ペネロペは、勝利者インタビューのために馬場へ飛び出していったユスティーナの後ろ姿を眺めながら、賭けの証書を夕陽にかざした。ナナの勝利には手持ちの金の半分近くを突っ込んだのだ。そしてオッズは実に四十三倍、大穴大的中という次第である。これでしばらくは小遣いに困ることはないだろう。
記者たちに囲まれたナナは、友だちへの感謝やジュリアに対する心配の念を緊張の面持ちで述べているようだった。カチコチと固まりぎこちない返答を寄越している彼女の様子は、実に微笑ましい。しかしまぁ、それにしても——。
エリザベートに背を向けて歩み去って行ったジュリアの方へ視線を移し、これは想像以上の偏屈だという感想をペネロペ自身は新たにしていた。レディントン先生も、きっとあの子の教育には手を焼くことだろう。そう思うと同時に、彼女はひとつ妙案を思いついていたのだった。
〈仮ライセンス試験〉に向けたあれこれが活発化するこれからの時期、いましがた思いついた仕掛けは果たして彼女にとってどう出るのだろうか——そんなこんなを計算しつつ、彼女は人知れず観衆のなかに消えていった。あとには、彼女の吹いた口笛の音だけが残されていた。
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馬術部厩舎に馬を預け、ジュリア・エインフェリアはひとりで回廊を歩んでいる。懸念していた足の痛みも、いまはすっかり引いていた。落馬したときは捻ったかと思ったものの、幸い大事には至っていなかったらしい。デフィニティーヴォの様子を見てくれた馬術部員も、馬体に異状なしの太鼓判を押してくれていた。ジョストは激しい競技だから、騎手だけでなく馬の怪我も気遣ってやる必要があるのだった。
いま彼女が考えているのは、先刻の試合のことであり、主人のエリザベートについてのことであり、そして自分の心持ちのことだった。下を向き、俯き加減で、ただ黙然と内省に耽る。なぜ自分はナナ・ミシェーレに不覚を取ってしまったのか。なぜ自分は主人の言葉に耳を傾けず、慢心をしてしまったのか。
「試合、見させてもらったよ」
ふと、背後から声が聞こえた。ジュリアにとって、何よりも聞き覚えのある声に相違なかった。立ち止まって顔を上げると、やはり思った通りの顔がそこにある。姉のシエナ・エインフェリアの顔だった。もっともエインフェリアの家を棄てたいま、彼女は「シエナ・フィナンシェ」という名前を名乗っているようだったが、そんなことはどうでもいい。声の主を睨みつけながら、ジュリアは言った。
「……私の前に二度と現れないよう、お伝えしたはずでしたが」
「前に会ったのはローマだったかな。一年前? 二年前? ま、そんな細かいことなんか覚えちゃいないが」
その言葉に構うことなく歩みを再開したジュリアの背中を、シエナの声が追いかける。
「ジュリア、さっきの試合、お前本気出してなかったろ」
「……」
「自分を押し殺して生きてもいいことなんかひとつもないんだ。あそこで『お嬢』に気を遣う必要なんて、全然なかったんだぞ。お前はお前の思うように戦えば、あの試合に負けることはなかっただろうに」
後ろを振り返り、ジュリアは実の姉と相対した。自分とよく似た作りの顔を睨み返すと、自然とあの置き手紙のことが思い起こされ、静かな怒りが湧き出してくる。この女はエリザベートにジュリア自身が縛られていると、まだ言い募るつもりだろうか。そう思うと、怒りは明確な言葉ひとつとなって表出した。
「侯爵家を棄てたあなたに、いったい何がわかるというのですか……!」
口を衝いて出た言葉は、わずかながらに震えていた。
「家を棄てた、ねぇ……」
ふと逸らされたシエナの視線は、どこか遠く彼方を見つめているようだった。
「確かにアタシは侯爵家を飛び出した身の上だ。エインフェリアの〈血の誓約〉からすれば、それは裏切り行為に違いない。だからお前の言っていることは実に正しい。アタシは侯爵家の裏切り者で、仮にここでお前に殺されても文句は言えんさ」
そう言って腕を組み直した彼女の大きな胸が、二の腕に圧縮されて変形した。その様子を見ながら、姉妹であってもそこだけは似ても似つかないと、場違いな感想をジュリアは抱く。
殺されても文句は言えない——その言葉を聞きつつ、姉を手に掛けることができるだろうかとジュリアは果てのない自問へ誘われた心地だった。
『お嬢』がそう命じれば、という留保がつくのをジュリアは初めて自覚していた。しかし、エリザベートは決してそれを命じることはないだろう。彼女は殺生を何よりも嫌っていたし、エインフェリア家から飛び出したシエナの意思を尊重もしていた。
かつてエリザベートは言っていた。お母様のことを誰よりも慕い、愛し、忠実に仕えていたのはシエナだ、と。そんな彼女にとって、あの葬式の出来事は心に深い傷跡を残したに違いない。だから家を出て行ったシエナの気持ちが私には痛いほど理解できる——いずれもエリザベートの言葉だった。
「なぁジュリア。アタシは『あの人』の存在にいまでも心を縛られている。もうこの世にいないとわかっていながら、心は無意識のうちに『あの人』のそばにあろうとするのさ。だから、お前がエリザベート様を慕う気持ちもよくわかる——わかりすぎるくらいに、よくわかる」
だからこそ、とシエナは言った。
「縛られることで不自由になったお前の心を、アタシは憂いてもいるんだ。エリザベート様へ親身に仕えることと、お前の心が何ものにも縛られず自由であることは、決して矛盾しないとアタシは思う。それをいつか、わかってくれることを願っているよ」
シエナの言葉に答えることなく、ジュリアはその場を後にした。なぜだろう——あの置き手紙に書かれた姉の言葉ひとつが、どうしても頭の片隅から消えてくれない。縛られるな、自由になれ(Non essere vincolato, essere libero)。胸のなかで幾重もの渦を巻くその言葉を飲み下し、ジュリアは丘の向こうへ沈んでゆく夕陽を眺め、黙考した。